Blog:医療人文学/ ONHP 報告 #022 (240429)

The Palgrave Encyclopedia of the Health Humanities の編集委員会から、3年ほど前に寄稿していた原稿の採用が決定された、との連絡が来た。聖路加国際大学のHealth Humanitiesを推進している方々からのサポートをいただいていた企画。この原稿を書いた時の関心と、それからの時間経過の中で変化してきた関心とがある。この機会に以前の関心と今の関心とを総合的に捉え直してみる機会としたい。1人称・2人称の考え方については自分では比較的明確に提示できているつもりでいる。今回は、0人称の考え方を整理しなおしておく必要を感じている。そしていつか3人称についても整理する予定。

大枠からすると、私は、医療や介護も含めて、いろいろなケアが大切だと思っている。しかし、それぞれの前提や人間理解の枠組み、そしてケアのスタイルには大きな違いがあると感じる。特に近年は、医療(医科学)の視点が基準となっているような印象を持ち、危惧を抱いている。10年以上前のTeamOncology ABCの論文、2020年頃からの人称表現を導入したいくつかの論考がある。これらは、医科学の視点を相対化することを目的としている。Hubert Hermans によるDialogical Self Theoryと「分人」 、Negative Capability、中動態、そしてPolyphonyなどの概念を用いながら、それらを表現することに努めてきた。大きな枠では1人称・2人称を中心に、ケアのお相手(Focus of Care: FC)のNarrative Selfに出会うことを論じてきたつもりである。しかし、1人称・2人称を論ずる中で、おそらく日本でのケアに0人称という概念を持ち込んでおきながらあまり丁寧に論じてこなかった0人称そして3人称についての整理の第一歩を、この場で試みてみたいと思う。しかし、進行形での記述になり、後で混乱を修正することになってしまうかもしれない。(写真は近日中に掲載予定)

0人称という考え方は、社会思想としては、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト『人称の哲学:生の政治と非人称の思想 (講談社選書メチエ)』(岡田温司 他 訳、2011年)の中に展開されている。この著作は、同じくイタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンの大プロジェクト「ホモ・サケル」(特には『アウシュヴィッツの残りのもの〔新装版〕』月曜社、2022年)に呼応している。特に後者は、アウシュヴィッツにおいて人がその個性・人称を奪われ、人として認識されなくなった状況を否定的に取り上げ、人間が非人称化されるグロテスクさを表現する。他方フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、当時の社会の「人格主義」、すなわち優れた「人格」を持つとされる人々への賞賛に反発し、人間の神聖さは、思想・嗜好・能力といった所謂「人格」によるものではなく、どのような人生を生きようとも人として存在すること自体が、神から与えられた命を生きる神聖さの表現だとする。これとは別に、中村桂子の「生命誌」の視点に導かれ、一人一人の人間の生命が40億年の生命進化の中でこのような存在になり、ゲノムとしては歴史の中の一回きりの存在であることに大きな魅力を感じている。そこに木村敏が再発見するZoeとBiosの視点において、生命(Zoe)といのち(Bios)の重なり合いが西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という概念で理解できることを学んだ。(『福岡伸一、西田哲学を読む: 生命をめぐる思索の旅 (小学館新書 ふ 7-3)』2020年)

0人称は西欧思想が人間存在の基礎としてきた、感情・思考・理性・判断・記憶・関係性といった人間の1人称としての存在「以前」の状態を指す。否定的な概念であり同時に肯定的な概念である。

否定的には、人間を0人称で捉えようとする社会の力に対して、エスポジトやアガンベンが警鐘を鳴らす。第二次戦争中のドイツのユダヤ人や障がい者に向けての政策(例えばアウシュヴィッツ収容所)また日本の731部隊などが、他の民族や他国民を番号でもしくは「丸太」という表現で呼び、一人一人の尊厳を無視して大量虐殺や人体実験をした歴史的事実がある。そこにあるのは、上記の1人称としてのいのちの豊かさや生の実相を削ぎ落とされた「剥き出しの生」(アガンベン)である。そしてモノとしてそれらを扱う病んだ社会的な視点がある。しかしこのような人類の営みは例外的なモノではない。奴隷制度・性暴力・戦争は、すべて0人称と無関係なものではない。アガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトは、これらを総合的に捉えようとする。ところでこの視点は、生命現象を対象としその機能と変化を科学的に理解し深く介入しようとする医学のそれと紙一重である。モノとして生命現象を見る科学の眼差しは、実はまさに0人称の視点である。そして0人称は科学や効率の視点で人を捉えようとする時、数値化Quanitificationを行う。医科学の価値を最大限に尊重しながらも、医療においてはその0人称の視点を相対化する必要がある、とするのがケアを専門とする伊藤の一つの議論である。

これに対して0人称への肯定的な視点は、そのこと自体が持つ「神秘性」である。1人称以前に、一人一人の人間存在が40億年の生命誌の具体化・顕現である。しかも、多産多死の生命の歴史の中で、数えきれない生命が生まれ、殆どが他の生物の餌になるのが常態。生き残りが次の世代を生み出す本来の目的は(進化ではなく)次の餌を供給するため。進化は計画や必然ではなく、偶然なのかもしれない。このような奇跡的確率での生き残りを、40億年分繰り返している。そして私たち一人ひとりは40億年前の最初の生命と遺伝子的に「直接」に繋がっている。個々の生命が今ここに在ることの神秘。ヴェイユの「神聖」という表現は、神学的な概念であるのと同時に生命誌的概念。この0人称の神聖さから目を逸らさないことが、人間の尊厳を見失わない力。人生を始めようとしている存在、人生を終えようとしている存在、障がいや病と共に生きる存在、1人称的な能力をもたない(先天的&後天的)存在。また失いつつある存在。これらはそれらの最も重篤な状況になったとしてもその「神聖性」を失うことはない。ケアや福祉の根源をなす人間への眼差し。そしてこの眼差しは、ナマの0人称が総て個々にユニークであることQualificationにこだわる。0人称への視点はシンボリックには「ご遺体」への眼差しに表現されているように思う。そして、この世での生を終えた存在が共同体の中で、また宇宙の中で見出す存在の尊さとも言える。この視点は、文化の中で養わなければ獲得できないのではないだろうか。

他の生命にどのような眼差しを向けるかは、全く別に議論する必要があるだろう。残念ながら私には今それを論ずる力はない。しかし近年の ”One Health” の考え方と、そう遠いところの議論ではないように思う。

このような0人称が1人称の営みとどのように関わっているのか。これが現代の脳科学や心身論の最前線だろう。生涯学び続けるテーマであろう。入り口は、茂木健一郎の「クオリア」の議論。また郡司ペギオ幸夫の一連の著作。

最後にやや強引に:

0人称が1人称としての内奥の深みを養い、他者と交流し(2人称)、そして社会的存在として自己客観化してゆく(3人称)プロセスを伊藤は【〈吸〉のスピリチュアリティ Spirituality Inhale > inspiration 】と概念化する。反対に、人が社会性・関係性・個性を手放し自己を解放してゆくプロセスを【〈呼〉のスピリチュアリティ Spirituality Exhale > expiration】と概念化する。最近は、この個の人生の中でのスピリチュアリティの〈呼 Exhale〉と〈吸 Inhale〉の動きを内呼吸 Internal Respiration;個が自分の人生の外部(歴史・文化・言語・他者・運命・神秘)との〈呼 Exhale〉と〈吸 Inhale〉の動きを内呼吸 External Respiration として概念化を進めたいと思っている。

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以下、毎回のお願い:バックグラウンド・リサーチが不十分なものも掲載します。限られた体験に基づく主観的な記述が中心となります。引用等はお控えください。また、このブログ記事は、学びの途上の記録であり、それぞれのテーマについて伊藤の最終的な見解でないこともご理解ください。Blogの中では個人名は、原則 First Name で記すことにしました。あくまでも伊藤の経験の呟きであり、相手について記述する意図はありません。

伊藤高章 t.d.ito@sacra.or.jp

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