Blog:医療人文学/ ONHP 報告 #024 (240521)

今週のtutorialは、文学と医療人文学。担当チュータのMartaはイタリア出身の医療文学者。医学を学んだ時期もあるという。賞を取る詩集を出版したり、クラッシック・バレーのダンサーでもある。彼女がいくつかの領域の文献候補を挙げてくれた。

感染症:アルベール・カミュ『ペスト』、ナラティヴ・メディスン、臓器移植:カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、エイズ:スーザン・ソンダク『隠喩としての病』その他:トーマス・マン『魔の山』 など

『ペスト』は、COVIDになってすぐ、SaCRA、立正佼成会、聖路加国際大学大学院などいくつかの場所で読書会をした。ナラティヴ・メディスンは、15年ほど前にコロンビア大学医学部 Rita Charon のワークショップに出て以来常に考えているテーマ。私のケア方法論の根幹に関わる。またエイズは、1990年代前半にバークレイで神学生時代を過ごし、San Francisco General Hospital で牧会実習をした時からの関心事。毎年12月に東京で行われている世界AIDS day 礼拝の立ち上げにも関わった。今年で第30回を迎えるこの礼拝での講話を担当する予定。

 実は、イシグロの『わたしを離さないで』を読むことを私は避けていた。さまざまなルートで得たこの本に関する情報に押しつぶされて、この作品に触れることを「恐れて」いた。読んだ時の自分の心が受けるであろうダメージに耐えられる自信がなかった。登場人物の想いに共感した時に踏み込んでしまう絶望、その社会を構想する人間の悍ましさへの怒り、そしてストーリー自体の悲しさを想像するだけで、それに直面する勇気なかった。Martaからの文献リストと選択肢が送られてきた時、この作品に向き合う時が来たことを感じ、オックスフォードで過ごしている今の私には、そのために条件が整っていることも確信していた。

https://web.archive.org/web/20191008185608/https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2017/ishiguro/facts/

 イシグロは2017年ノーベル文学賞を受賞者である。その受賞理由には次のように記されている、「伊藤意訳:彼は、読者の情緒を大きく揺らす作品を通して、私たちと世界とが繋がっているという感覚が虚構であり、両者の間には深淵が横たわっていることを明らかにした。”who, in novels of great emotional force, has uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world”. 」(”The Nobel Prize in Literature 2017 – Press Release”. Nobelprize.org. Nobel Media AB 2014. Web. 5 Oct 2017. https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2017/summary/) 私は、まさに「情緒を大きく揺ら」されることを恐れていた。作品を読んで、この恐れは半分は正しく、半分は間違っていたと感じている。

 イシグロによるこの小説の語りのスタイルは、登場人物たちの未来に待っているものを概念的に説明することを拒否している。読者は、意味するところを知らされないまま「提供者」「介護人」「目的」などをキーワードとして、ヘイルシャム寄宿学校で生活する若者の生活が、情緒豊かに語られる世界に誘われる。読者は、自分の想像力をフルに働かせながら、この学校を囲む大きな世界を想像する。そして自身が思い描くこの世界について、知的・倫理的・感情的に振り回される。具体的なイメジの端緒すら与えられないとき、臓器移植・クローンなどといった分野に関する知識や、医療倫理や人権といった価値観が豊富であればあるほど、読者はこの語られない世界が抱えるジレンマを空想し無限に苦しめられる。人間の尊厳が、それが存在しない空間の中で最大に表現される。この小説が描かないことで描き出す尊厳の不在(「空」)の中で、尊厳が激しく表現される。激しく揺さぶられる自分はこの構造の中でどこに立ち位置を得ているのかを振り返るとき、問われているのは自分自身の倫理観であることに気付かされる。イシグロ自身、TBSのインタビューの中で「原作の背景は現代イギリスの悲観的な別世界を想定していますが、この物語を書いているときに私の作品の中で最も「日本的」な話だとよく感じていました。」(https://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/original/)と語る。私は、不在を通して重要なことを表現する技法が「日本的」であると感じる。

 同時に、私の恐れは間違っていたことにも気付かされる。そして、その間違いから学べるものが大きかった。登場人物たちは、この状況「にもかかわらず  in spite of」それぞれの一人称を、与えられた環境の中で彼ら彼女ららしく生きている。上記の私の「恐れ」や「怒り」は、登場人物には共有されていない。私が築く虚構の中で、私自身が「恐れ」や「怒り」を捏造している。私は、「オフサイド」をするようにイシグロに仕組まれていることに気づく。

 人が社会構成論的にその人になってゆき、無限ではなく具体的な文化の中で価値観や「普通」を身につけてゆくことは避けられない。さまざまなことを当たり前として、それを前提に生きる。この小説は、Kathy たちが世界を改革する話ではなく、そこで生きる物語なのである。それをポストモダン的に批判することはできる。しかし、そこに運命づけられ生きるそのいのちに向けては、見守りwitness、承認empower してゆく以外はない。Kathyたちの苦悩は、彼女らに聴くところから始めなければならない。私は虚構の中で勝手に「恐れ」や「怒り」を肥大化させていた。このイシグロの罠にハマったことの意味はとても大きい。KathyやTommyの思いの大きさと違うものを勝手に空想して恐れていた。「的外れ」(ギリシャ語でハマルティアχαμαρτιαと表現される)。聖書は、この「的外れ」を「罪」という意味で用いる。虚なるものに共感するケア者の「オフサイド」(ラグビーなどで、ボールより先に進んでしまう反則)は「罪」。”idolopathy” という概念を思いついた。自分が勝手に思い描くケア相手の情緒の虚構に「共感」したつもりになる、ケア者の「的外れ」。これが共感疲労を生む。オックスフォードにいる間に、この概念が使えそうかを確認したい。

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以下、毎回のお願い:バックグラウンド・リサーチが不十分なものも掲載します。限られた体験に基づく主観的な記述が中心となります。引用等はお控えください。また、このブログ記事は、学びの途上の記録であり、それぞれのテーマについて伊藤の最終的な見解でないこともご理解ください。Blogの中では個人名は、原則 First Name で記すことにしました。あくまでも伊藤の経験の呟きであり、相手について記述する意図はありません。

伊藤高章 t.d.ito@sacra.or.jp

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