ポルトガルのリスボンに滞在する機会があった。自由時間の最大の関心は大航海時代。西欧中心主義的には「Age of Discovery 発見の時代」と呼ばれているが、「発見」された側はそれ以前から存在するので、歴史学的には西欧の大航海時代。岩波書店の『大航海時代叢書』企画の際に用いられた表現らしい。行き先はリスボンの海事博物館 Museu de Marinha。この関心の理由は、いくつかある。そもそも、大学時代に指導教授大塚久雄のもとで西欧経済史を学んだこと。日本に最初に渡来(種子島)したのがポルトガル船であり、ナバラ王国(現スペイン)生まれのバスク人であったザビエルがポルトガル船で来たこと。そして、日本の歴史との関係に関心があったこと(特に初期日本のキリスト教徒)。さらに、思い起こす2つの芸術作品がある。
左写真[https://ja.wikipedia.org/wiki/発見のモニュメント]
「発見のモニュメント」の中のザビエル。
まずは、イベリア半島は711年以来イスラームの地であり、ピレネー山脈北のヨーロッパとは文化的に大きな違いがある。後ウマイヤ朝の首都コルドバは、モスクと図書館を擁する西方イスラーム文化の中心地であった。キリスト教によるレコンキスタ(イベリア半島再征服活動)によって最後にナスル朝の首都グラナダ(現在スペインのアンダルシア地方)が、陥落したのが1492年であり、約780年間イスラームがこの地に大きな位置を占めていた。当時のイスラームは、古代ギリシャ思想・科学・哲学をアラビア語に翻訳して吸収し、独自の科学技術を展開していた。そのレベルは西欧文化を凌いでおり、大航海に向かう技術力を蓄えていたと言える。カトリック神学の大思想家トマス・アクィナスは、西欧には継承されて来なかったアリストテレス哲学(ギリシャ語)を、アラビア語翻訳のラテン語への再翻訳テキストを通して学んだと言われる。イスラーム思想導入による西欧文化の開花を「12世紀のルネサンス」と呼ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルハンブラ宮殿#/media/ファイル:Fale_-_Spain_-_Granada_-_34.jpg
リスボンは、1149年にはレコンキスタによりキリスト教文化圏に入っていた。しかし、当時のヨーロッパ経済は、十字軍の副産物である地中海貿易による東西商品の交流により活性化され、その中心はベネチアを中心とするイタリア商人であった。大西洋に面するポストガルは別の経済展開を目指す必要があった。イスラームから受け継いだ大型造船技術や天文学知識に基づく航海術を駆使してポストガルはリスボンから大航海に出た。アフリカ大陸西岸を辿り、Bartolomeu Dias が最南端希望峰に達したのが1488年。一方、ポルトガル船に乗りアフリカ航海を経験していたコロンブスCristóbal Colón が、スペイン王とサンタ・フェ契約を結び出帆しアメリカ大陸に到達したのが1492年。これにより、ポルトガルとスペインとの大航海上の権益の衝突が予想され、その調整のため1492年にトルデシリャス条約が成立する。
トルデシリャス条約(1492年)は、ポルトガルとスペインの大航海上の権益を分配するためのもの。具体的には、1481年に教皇シクトゥス4世がカナリア諸島以南の権益をポルトガルに与えていたのに対し、スペイン出身の教皇アレクサンデル6世が、「教皇子午線」(1493)を定めその西側の利権をスペインに与えようとした。その調整の結果がトルデシリャス条約。現代的な言い方をすると、両国の間で、西経46°37′以西(南北アメリカ)の権益をスペイン、以東(ブラジルおよびアフリカ)の権益をポルトガルが得るという合意。ブラジルだけがポルトガル語圏である理由はここにある。なぜこれにこだわるかというと、やがてその利害の衝突が地球の反対側でも発生するから。
右写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/トルデシリャス条約
Vasco da Gama がインドのカリカットに要塞・商館を設立したのが1498年。その延長上でポルトガルがマラッカ王国を制圧してモルッカ諸島に到達し香辛料貿易の端緒を開くのが1512年。これに対して、スペイン王室の支援で、ポルトガル人マゼランが西回りで南米大陸最南端(マゼラン海峡)を経て太平洋を西に進み、フィリッピンに到着したのが1521年。両国はモルッカ問題を巡って大いに対立する(合田昌史 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239199/1/shirin_075_6_829.pdf ;高瀬弘一郎「大航海時代イベリア両国の世界二分割征服論と日本」『思想』568、1971年、85-93頁)。1524年には、天文学者・地図学者・航海家、そして法律家による専門家諮問会議であるバダホス=エルヴァス会議 Junta de Badajoz-Elvas が開催される。そして1529年にサラゴザ条約が成立する。現代的な言い方をすると、トルデシリャス条約の正反対の東経133°36′ではなく、東経144°30′をポルトガルとスペインの権益の区分と決着した。ただしこれより西にあるフィリッピンでの権益は、例外的にスペインへの帰属とされた。問題は、これを日本に当てはめると、133°は山口県・広島県・愛媛県・高知県を通り、144°は北海道網走付近だということ。つまり、サラゴザ条約の争点は、そのまま両国の後の日本における権益にも関わっていたのである。ザビエルによる布教以来(1549-51)、紆余曲折を得ながらも日本で布教が許されていたポルトガルのイエズス会は、じつはサラゴザ条約によって排他的に日本にやってきたのである。そしてそれを侵害する形で、許可を得ずに行われた日本におけるスペインによる宣教(1592年ドミニコ会、1593年フランシスコ会)は、複雑な政治的意味を持っており、1596年のサン=フェリペ号事件、それに続く1597年の「二十六聖人殉教」の出来事は、日本国内の出来事にとどまらない意味を持っていた。
徳川幕府による「鎖国」政策(1639〜)の意味を考える。もちろん西欧による海外進出の主役は、1589年のアラメダの海戦によって、ポストガル/スペインからイングランド/オランダに移行している。西欧の情勢も大きく変わっている。キリスト教の布教を基盤に領土獲得を目指すカトリック国から、通商のみを求めるプロテスタントの国へと時代の主役は移行している。1600年にできたイギリスの東インド会社は、現地人へのキリスト教宣教を禁じられていた(キリスト教徒となった「兄弟姉妹」から、搾取することは許されないという思想。イギリス議会がインドでのキリスト教宣教を許可するのは1813年。)しかし日本が、ポルトガル vs. スペインだけでなく、ポルトガル/スペイン vs. イングランド/オランダという諸国の海外利権争いの舞台になる可能性はなかったとは言えない。国を閉ざす、という日本の選択は、当時の国際情勢の中で一つの正しい選択であったのかもしれない。
さて、私をこのような関心は、全然別な興味にも突き動かされている。一つは原田マハの天正遣欧少年使節を背景に俵屋宗達を扱った小説『風神雷神 Juppiter, Aeolus』。信長治下、イエズス会宣教師ヴァリニャーノに率いられ、インドのゴア、リスボンを経てローマに行ってローマ法王に謁見する少年たちの話。美術小説家原田マハは、そこに俵屋宗達の空想上のストーリーを重ねる。近年最も興味深く読んだ小説の一つ。もう一つは1986年の映画『The Mission』。時代が下って、17世紀のポルトガル国境近くのイエズス会伝道所の話(1983年 UNESCO世界遺産)。先住民グアラニー族への宣教と同時に定住促進や奴隷商人からの保護が目指された。ある種の理想郷建設。音楽が大切な役割を果たしていたことにも関心がある。トルデシリャス条約に関係する、南米におけるスペインvs.ポルトガルの境界を定めるマドリード条約(1750年)によって伝道所が閉鎖される。それに伴う、キリスト教徒同士の争いの話。1767年にイエズス会はアメリカ大陸から追放される。映画音楽の作曲はエンニオ・モリコーネ(「荒野の用心棒」「ニュー・シネマ・パラダイス」)。モリコーネ自身もこの映画の中の「ガブリエルのオーボエ」が最高傑作と語る。彼の曲をヨーヨー・マが奏でるチェロは、素敵。
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