金曜日午後、医学部5年生向けのMHセミナーの3回目。会場は St Hugh’s Colleg。ここは特別な場所。
当時女子学生のためのカレッジだった St Hugh’s は、第二次大戦中、頭部外傷を負った兵士のための唯一の専門病院に転用された。ここに英語圏の有能な医師たちが集められ、Oxford大学の学問と連携し治療と研究にあたった。このキャンパスで脳外科学が独自の領域として発展し、脳の機能についての研究が進められ、初めてのペニシリンの臨床研究が行われ、脳波測定が開発された。兵士の回復を図るため、理学療法や作業療法が開発されたのもここである。また、パラリンピックの思想もここに起源を持つ。最大の特徴は、入院した兵士たちの退院までの全記録がしっかりと残っていること。病院として機能していた1940年から1945年の間に、驚くほど多くの医学的な実践と研究がなされ、このチームに関わった人々が世界の脳科学の基礎づくりに多大な貢献をした。カレッジの美しい中庭、近代的なレクチャーホールの建つその場に、80年前には病棟があった。医学史に残る出来事の現場で医学の発展の講義を受けた。涙が出そう。広い中庭を囲む煉瓦造りの美しい建物の外観は、当時研究棟として用いられていたそのままだという。M-F Weiner, J Silver (2017). St Hugh’s Military Hospital (Head Injuries), Oxford 1940-1945, Journa of the Royal College of Physicians of Edinburgh 2017; 47:1883-189. | doi: 10.4997/JrCPe.2017.219 。戦時下の医療は、特別である。平時とは桁違いの人数の、治療を必要とする患者ために、可能な治療が現場の必要に応じて次々に実施される。中には、治療に結び付かず患者に危害を加えた例も無数にあったことは想像に難くない。St. Hugh’s では、幸い大学と連携していたので、研究と結びつき、治療効果の観察が体系的になされた。詳細な治療記録が残されていることが、医学に発展に大きく寄与した要因である。
今日のセミナーでの医学部学生への問いかけは、大変興味深かった。実際の当時の診療記録が配られ、現在の医療との違いで気づいたことを発表するものだった。特に注目するように指示されたのが「言葉」「用語」だった。もちろん検査データの量は異なるが、学生たちは、現在の治療記録の記述と大差がないことに驚いていた。オブザーバーの医師から指導教員に向けての質問の一つは、患者はこの記録を見ることができたのか、というものだった。当時は、記録は医療者サイドだけが見ることができたという。その問いにつづくディスカッションでは、記録の用語にあらわれる(もしくは欠如する)人権や尊厳への配慮について検討された。意外だったのは、医療者のコミュニケーションのためだけの記録の場合、記入者の価値観や印象に基づく断定的な判断が記録に反映することが確認された。休憩時間に私が担当教員の Dr. Jonathan Attwood と話したのは、戦時下の医療の特徴について。自国兵士の治療を通して発展した医療と、捕虜を対象として行われた実験によって発展した医療との違いである。私には、約一月後に日本の植民地支配下における医療をテーマとする tutorial が予定されている。
1980年から男子学生も受け入れるようになったSt Hugh’s College は、優れた人材を生み出している。ミャンマーにおける非暴力民主化運動の元指導者、元国家顧問のアウン・サン・スーチー氏、2016年から2019年まで英国首相を務めたテレサ・メイ氏もその中にいる。
今週木曜日のONHP講義担当は、The Dictionary People (London 2023) の著者で Senior Research Fellow, Harris Manchester College の Dr. Sarah Ogilvie。上記の本にまとめられた彼女の研究は、Oxford English Dictionary の成立史。この辞書は、普通の辞書と全く異なる役割を負った辞書。言葉の厳密な意味を提示するのはこの辞書の目的ではない。ひとつひとつの単語が、どのような文献にどのような文脈で用いられてきたのかを歴史順に記載してある。Sarahの表現によると、単語の履歴書だという。世界中から、単語の珍しい用法を、定形のスリップに記載して 78 Banbury Road, Oxford に郵送してもらい、その膨大なデータベースに基づいてこの辞書が作成されたという。Sarahの研究は、それらのスリップをデジタルデータベース化しコンピュータをつかって、この辞書の背後にある多くの無名な人々にアプローチする。どこの国から、どのような人が投稿してきたのか。その男女比は。どのような文献が引用されたのか。スリップのコード化。評価。彼女の専門は、人文学におけるデジタル技術の活用。
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